スイス時計産業について

スイス時計産業の成り立ち

スイスの時計産業は16世紀半ばのジュネーブに始まる。当時のヨーロッパでは,塔時計のような大きな時計だけでなく,家庭用の置時計や掛時計,持ち運び可能な携帯時計もすでに作られていた。ただ,製造の中心地は,北イタリア,南ドイツ,フランスであった。時計は長い間,主に裕福な権力者や貴族の贅沢品,そして,航海で使用される精密な羅針盤機器という2つの役割を持っていた。当時のスイスには権力を行使する貴族もいない上,海もないためスイスの時計作りは他国よりも遅れて始まった。17世紀に入り,これらの地域の時計製造が衰弱し,18世紀はじめにはジュネーブが時計製造中心地の一つに成長した。

では,どうしてジュネーブに時計作りが栄えたか。これは,1517年の宗教改革が大きく影響している。宗教改革は,ルターがカトリック教会の腐敗を攻撃して始まったキリスト教改革運動である。改革運動は,全ヨーロッパに波及し,フランス語圏での宗教改革の中心人物であったカルバンはジュネーブで改革ののろしを挙げた。これが1541年の事である。その後,フランスでは,カルバン派の信教徒(ユグノー)とカトリック教会との対立は内乱に発展する。これは,信教徒の自由を認めるナントの勅令がフランス国王より出されて終結を見たが,混乱の間に,多くのユグノーは宗教的迫害から逃れて,国外へ避難した。彼らの多くが逃げ込んだのが,カルバンの町「ジュネーブ」で,その多くは絹織物,染色技術,印刷術,時計製造術を見につけた手工業者であった。

当時のジュネーブでは,優れた宝飾細工品が作られていたが,カルバンの改革は教会の制度のみならず,市民生活にまで及び,装飾品などの贅沢品は制限されていた。そのため,生計を立てることが難しくなっていたジュネーブの金細工師達は,時計製造技術を持ったユグノーの助けをかり,時計作りに転じたのである。

17世紀後半になり,ナントの勅令が廃止されたため,再び,多くのユグノーたちがジュネーブへ逃げ込み,すでに組織化されていたジュネーブの時計工業はさらに膨らんでいった。やがて,カルバン派の戒律が緩められると,制限されていた装飾工芸は復活し,時計作りの技術と結合して,美しい装飾を施した時計がジュネーブを代表する工芸として定着した。

18世紀にはいると,ジュネーブの時計作りはジュラ山脈に沿って広がった。ジュネーヴの時計職人達は,革新的に新しいモデルの開発をしただけでなく,スイスの安定した銀行システムに支えられて,経営の能力にも長けていた。スイスの時計産業界は,当初から時計をスイスの代表的な輸出品にしようと考えており,輸出先の国に出向いてはその国の需要や好みなどの情報を収集していた。始めの頃,スイスの時計メーカーは,主にフランスやイギリス製の時計を模倣していた。製造方法が他国よりも効率的だったため,低価格なコピー製品の製造が可能であった。その後,スイスの時計産業は安定期を迎え,独自のモデルを作り始めたのである。ジュネーヴ郊外の小さな工場や家内工業で部品が作られ,ジュネーヴの時計職人の手で組み立てられていた。ジュネーヴの職人達は,時計の装飾性に重点を置いていて,1760年にジュネーヴでエナメルコーティングの絵付け技術が開発されると,時計装飾にも用いられるようになった。

時の多くのスイス人時計職人は外国で時計製造の教育を受けていた。その中で特に知られているのが,アブラアン・ルイ・ブレゲ(1747〜1823)である。ヌーシャテル出身のブレゲは,フランスのベルサイユで教育を受けた後,ロンドンに長期滞在し,最終的にはパリに定住した。ブレゲは“歴史上最も優れた時計職人”とも言われている。彼は,機械式時計トゥールビヨン(時計を狂わせる原因になる重力の影響を避けるために,ゼンマイを調速機ごと一定の早さで回転させて,一カ所に重みがかかるのを防ぐという機能)や自分でねじを巻くことのできる時計など数多くの重要な開発を手がけた。ねじ巻き時計のアイデアは,同じくスイス人時計職人アブラハム・ルイ・ペルレ(1729〜1826)が最初に発案したものであった。このように19世紀には自動巻きの発明,永久カレンダー,フライバッククロノグラフなどの複雑機構が作り出され,スイスは時計王国への地位を着実に築いたのである。

スイス時計の国外市場

17世紀から19世紀かけて,アジアはスイス時計産業にとって重要な市場であった。対外貿易の最初の拠点はコンスタンチノープル(現在のイスタンブール:時計職人だったジャン・ジャック・ルソーの父親がトプカプ宮殿の時計製造を公式に担当)。その後,18世紀半ばの中国の清朝の時代には,中国でスイス時計の人気が高まり,1810年から1820年の間には,その輸出高は頂点に達したが,1839年のアヘン戦争勃発で再び落ち込んだ。

時計は、顧客の好みに合わせて贅沢に作られていた。音楽に合わせて仕掛けが動く時計は,特にトルコと中国で好まれ,特別にこれらの国のモチーフで作られた時計もあった。中国向けにはいつもペア時計が製造された。これは,中国に2つ一組にして贈り物をする習慣があったからだと言われている。イギリスもペア時計の中国向け輸出を行ったが,ジュネーヴのメーカーは,2つの時計のデザインを左右対称にするなどして,イギリスの先を行っていた。また,19世紀にジュネーヴのメーカーは,時計に肖像写真をエナメル加工で施した“ラジャ時計”をインド向けに製造した。インドから送られてきた写真を施したこのラジャ時計は,大変な人気を博す。

1840年代の初頭,ヴァシュロン・コンスタンタンの社長ジョルジュ・オーギュスト・レショ(1800〜1864)が時計の部品を製造する機械を設計し,スイス時計産業に大きな変革が訪れた。機械化により,高性能な時計が以前よりもずっと速く,低コストで製造できるようになったのである。レショ自身は,機械化が進んだのちも手作りの仕上げにこだわっていた。

19世紀は,スイスの時計産業の好景気が続き,19世紀半ばまでにはイギリスを追い越し,世界最大の時計製造・販売国になった。しかし,19世紀後半,時計部品の大量生産によって競争国となったアメリカの台頭により,スイス時計産業は初めて深刻な状況に陥った。アメリカが製造する時計部品は精密であり,違うモデルへの使いまわしが可能なものだった。その後、10年間でスイス時計のアメリカへの輸出高は約75%減少した。

アメリカの台頭は,スイス時計産業にとって深刻な打撃だった。そして,スイスも精密時計部品の大量生産を開始した。20世紀の初めには,時計にカレンダーやストップウォッチなどの付加機能が付いたものを発表し,スイスの時計産業は競争力を高めるために奮闘した。そして,1920年には,ロレックスが世界で初めて防水時計の開発に成功した。

1967年にヌーシャテル州のスイス電子時計センター(CEH)が世界初のクォーツ時計の開発に成功したが,大量生産化に出遅れ,スイスの時計産業の大変革の時代は終わる。そして70年代に入り,クォーツ時計商品化の出遅れがスイスの時計産業に暗い影を落とすことになった。

その後,ある経済コンサルタントがスイス時計を新たにファションアイテムとして蘇らせ,スイス時計は再び世界市場のトップに返り咲いた。1995年,高品質でありながら手頃な価格のスウォッチの登場によってスイスを再び時計輸出国のトップの座に蘇らせた。スウォッチの成功は,消費者のスイス時計産業への信頼を強め,新しい販売戦略を示したことによりスイス産業界の指標となった。外国から見たスイスは,高性能な時計製造と結びつけて考えられることが多い。スイスにとって時計は,化学製品,機械に続き3番目に重要な輸出品である。

スイス時計ロゴ(Swiss Made)

スイス時計の高い評価の要因は,品質の高さだけでなく,高い技術やデザイン性などさまざまな要素が合わさった製品の多様性である。電子式時計が全体の約9割を占め,残りの1割が機械式時計である。この1割の機械式時計が全輸出高の半分を占めている。

スイス時計は“Swiss Made(スイス製)”の商標によって保護されており,スイスはコピー商品が出回るのをできる限り回避する目的で,さまざまな相互協定を結んだ。“Swiss Made”の商標を受けるためには,決められた条件を満たさなければならない。国外で製造された部品を一部使用することは許可されているが,全体の半分以上の部品はスイスで作られたものでなければならず,組み立てと検査はスイスで行われなければならない。スイスで製造された部品を使用し,国外で組み立てられた時計は,スイス時計としては認められず,スイス時計として販売することは固く禁じられている。

製造プロセスのうちの一部がジュネーヴ州で行われ,スイス時計としての条件を満たしていれば“ジュネーヴ”と表記することが許可されている。しかし,ジュネーヴ時計任意検査局が発行する“ジュネーヴシール(Poincon de Geneve)”は,ジュネーヴで製造された時計のみに刻印される。その他,12項目の認定規準をクリアし,すべての製造プロセスに通しナンバーが付いていなければならない。

スイス時計産業の構造

スイスの時計産業は,”水平構造”をしており,数百に及ぶパーツメーカーがそれぞれ専門のパーツを作り,数百社の”エタブリスール”と呼ばれる完成時計組み立て業者に収めている。

一方で,”垂直構造”をなしているメーカーも,少数ながら存在する。製造工程全てが一貫製造され,”マニュファクチュール”と呼ばれている。このようなメーカーは,そのブランドの重さもさることながら,彼らだけの独自性を持った製品で世界中で評価されている。その多くが限られた数だけ生産される高級時計であるが,大量生産の時計でも一貫製造されているのもある。

部品をパーツメーカーから調達するようになったり,あるいはムーブメント製造の企業クループに合併されたりで,マニュファクチュールの数は、以前に比べて減少している。これはその構造上コストがかさみ、利益を上げにくくなったためである。

1970年から1980年代半ばにかけて,スイス時計産業はクオーツ式時計の出現と,世界経済の激変の影響を受け,産業全体の規模は著しく縮小した。1970年にはおよそ9万人であった,時計産業に従事する労働者の数は1985年には3万2千人に落ち込み,現在もほぼ同じである。一方,企業数は,1970年には約1600社であったが,現在はおよそ600社となっている。

スイス時計業界の今

スイス,ドイツの時計業界は,今でも再編が続いている。以下に簡単な紹介をする。

ムーブメントを自社開発したメーカーをマニュファクチュールと呼ぶ場合もあるが,ゼンマイ等の特殊合金パーツやケース,文字盤,針にいたるまで自社工場で生産しているリアル・マニュファクチュールは下の表よりも少なくなる。事実,時計の心臓部のヒゲゼンマイは,ほとんどのメーカーがスウォッチグループのニヴァロックス社のものを使用している。

スウォッチグループ

オメガ等の大手有名ブランドと世界一のムーブメントメーカーETAが中心。90年代初頭にブランパンを復活させ,1999年にはブレゲとレマニアを吸収。ETA,フレデリックピゲ,レマニアは他グループのメーカーにもベースムーブメントを供給し,ゼンマイや文字盤等の多数の部品メーカーも有する巨大グループである。

スウォッチグループ
エタブリスール オメガ,ブレゲ,ブランパン,ロンジン,ティソ,ハミルトン,ラドー,スウォッチ,ジャケドロー
マニュファクチュール グラスヒュッテオリジナル
ムーブメント専門メーカー ETA,レマニア,フレデリックピゲ

リシュモングループ

カルティエを中心とするスウォッチグループに並ぶ,時計・宝飾グループ。いくつものマニュファクチュールを抱えている。1991年より,カルティエを含む3社でバーゼルフェアから別れ,SIHH(ジュネーブサロン)を開催するようになった。年々時計メーカーを吸収し,2000年,LMHグループのバックのマンネスマン財閥がイギリスボーダフォンに買収されたのを機に、LMHはリシュモン傘下になった。

リシュモングループ
エタブリスール カルティエ,ダンヒル,ボーム&メルシエ,モンブラン,パネライ
マニュファクチュール ピアジェ,バシュロンコンスタンタン,LMHグループ(IWC,ランゲ&ゾーネ,ジャガールクルト)

LVMHグループ

ルイ・ヴィトンを中心とする高級ブランドグループ。時計・宝飾事業を拡大している。2003年モバードグループにエベルを売却した。

LVMHグループ
エタブリスール ルイ・ヴィトン,ショーメ,タグホイヤー
マニュファクチュール ゼニス

WPHHグループ

フランク・ミュラーが中心。時計工房と学校を兼ねるウォッチランドで,毎年バーゼルフェアに合わせて新作を発表する。ちなみにフランク・ミュラーは今でもAHCI(独立設計士)メンバーでもある。

WPHHグループ
エタブリスール フランクミュラー
マニュファクチュール ピエールクンツ,E.C.W

ロレックスグループ

ロレックスグループ
エタブリスール チュードル
マニュファクチュール ロレックス

ブルガリグループ

ブルガリグループ
エタブリスール ブルガリ,ジェラルドジェンタ,ダニエルロート

独立系

独立系
エタブリスール ポヴェ
マニュファクチュール パテックフィリップ,ユリスナルダン,ショパール

 

3大時計ブランド(雲上ブランド)

パテック・フィリップ,オーデマ・ピゲ,バシュロン・コンスタンタンを指す。マニュファクチュールである。


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